指皮を捧げれば、カチが握れる
ソールを捧げれば、粒に乗れる
前腕を捧げれば、手数を稼げる
なら一体何を捧げれば、オリジンズを登れる?
「あれが、サカエ・ナカハラか…」
「肘が血塗れだ」
「なんでも、サンパウロのど真ん中でスマホを掲げながら自撮りしていたらしいぞ」
「満面の笑みで『アイムジャパニーズ!🤪』と叫んでいたとか」
「そんなもん、異端だと自ら言ってるようなもんじゃないか」
ガヤガヤ…
J「あれが異端か。」
地球の裏側、見知らぬ土地で若い男女4人に囲まれ、亀の様に地に伏せては背中を踏みつけられながら必死にスマホを守った男は、その夜には嬉々としてインスタグラムのストーリーに新しく刻まれた武勇伝の代償をアップしていた。
それでも、ボコボコにされるだけで済んで良かった。最悪なのは体を焼かれちまうことだ。なんてったって最後の審判で復活する身体が無くなる。ズバリ、”無”になる。
クライミングの全てを極めた修験者サチ・アンマは三重県鈴鹿市のクライミングジム諱でルートセットをしているときにこう言った
ーサカエはJに利益を与えない。好かれようと作り笑顔なんてしなくていいぞ。ー
そんな男と1ヶ月もの間、伯剌西爾を回るだなんて…
サカエ「お前がジェイか。」
J「初めまして!懸垂師のジェイです。」(ウッ、ウワッ!! デカッ!ヤバッ!なんだこの怪しさしかない人は!?)
サカエ「そっちの本は、セハ・ド・シポのトポか?」
J「あ、は、はい」
サカエ「…素晴らしい。500ルートもあるとは。一大エリアだな。」
J「あ・・・、で、でもソレ古いトポで。新しいトポには800ルート、5.14dまでありますよ」
サカエ「本当か!?是非見たい。これでクライミングが続けられる!」
J「はい!もちろ・・・ん?え?クライミング?もうクライミングはやめたのですよね?」
サカエ「私はクライマーだ。誰に何を言われても開拓を辞めるつもりはない」
J「だけどあなたは、あるがままの岩を登るというClimbingの教えにおいて絶対の御法度であるチ
「ロシエントムーチョ!!!」
サカエ「私は開拓を続けるためならスペイン語だって使う!!」
J「は?改心していないのですか?あなたは既に一度異端と認定され、運転免許証だって剥奪されているじゃないですか?」
ドンッ!
J「うっ」
サカエ「いいか?クライミングにはビレイヤーが必要だ。だから君を利用する。ビレイをしろ!私の代わりに運転をしろ!私の代わりにポルトガル語を話せ!!!私の為に!!!!」
J「は、はいっ!やります!めっちゃやります!」
サカエ「よし、分かったなら7/19、サンパウロまで来い。お前にこの写真をやろう。」
J「は・・はい。では失礼します。」
(…行くわけない。さっさと日本に帰って充実したトポもあって5G電波の入るエリアで登ろう)
(でも…、
ごくっ…
2023/7/19 AM7:00 (標準時-3h)
サンパウロ グアルーリョス国際空港
ザックがいつまで経っても流れてこないベルトコンベアを30分ほど眺めていた。同じ便に搭乗していた乗客たちもポツポツと出口へ消えていき、少しづつ不安が膨れ上がって来た。
思えばこの空港に降り立つのも3回目だ。初めて来た時は全く予想していなかった。まさか3回もこの国に来るなんて。そして、3回でも不十分だなんて。
Wi-Fiは繋がらず、外で待つTKD君に連絡を取ることも出来ない。直前まで滞在していたカナダとは打って変わって、あらゆる常識を覆してくるのがこの国だ。日本が誇る寿司文化も、ブラジルで魔改造されれば欧米のピザと合成されたバジリスクのような料理が出来上がる。
これはまだいい。日本にだってお好み焼きとご飯を一緒に食べる文化があるのだから、そう遠いものではないだろう。極め付けはスイーツとの合成だ。イチゴを丸々挟んだ巻物や、ヌテラの塗られた寿司がメニューに載っている。嘘だと思うのならばこのアカウントを覗いてみて欲しい。
苺大福の作り方を勘違いしたのだろうか。ブラジル飯におけるコカトリスとも言えそうなこの寿司がどれだけ人気かは分からないが、この寿司を見せられた時、この国が15世紀の郊外のように無秩序で、この旅の展望が当時の宇宙の形のように不確かなものであることだけはわかった。
そんな国でクライミング道具一式を失ったら詰みだ。本物のAmazonを抱えているのに欲しいものが手に入らないというのは中々の皮肉だ。冷や汗が額に滲み始めたあたりで痺れを切らし、もう一度インフォメーションまで行ってみるとさっきはなかったはずの青いオスプレイのザックが端によけられているのが見えた。ザックの外側に掛けていたオレンジのヘルメットが外れかかっていたからなのか、いずれにせよ無事荷物を受け取れた自分は予定よりだいぶ遅く入国を果たし、同じ様に不安を感じていたであろうTKD君と合流した。
TKD君は海外ではJoeと名乗っているらしい。本名を名乗ると大抵聞き返されることが多いため、欧米に馴染みのある名前を使っているそうだ。かくいう自分も”Jun”と名乗るとだいたい”Done”を短く発音したような濁った音とともに聞き返される。短い”Un”という発音には馴染みがないらしく、そのためいつも”June”と同じ発音だと嘘をつく。かくして2人のJが合流したわけだが、なんとこの空港で出会ったのが2度目の出会いとなる。1度目は荻窪のクライミングジムで2度目はサンパウロの国際空港。なんとも奇妙な出会いだが、それでも一緒に旅ができてしまうのがクライマーだ。幸い同世代であり、退職して世界を回るという稀有な体験まで共通している。ブラジルという不確定要素をどこまでJoeが覚悟できているのか知らないが、彼なら大丈夫だろう。もっとも、どんなトラブルにも特に責任を取るつもりもないが。
問題はもう1人の異端者だった。我々より数日早くサンパウロ入りをしていた彼は、市内では十分注意してくださいという忠告など意に介さず生命線とも言えるスマホを盗まれかけていた。そんな彼との合流場所はTiete(チエテ)バスターミナル、大都市間を結ぶサンパウロの主要バスターミナルだ。
空港からチエテバスターミナルに向かうバスは1時間に1本ほど出ている。次の便はあと10分ほどで出発するとのこと。先にSimカードを契約しておきたかったが、こっちの店が開くのはAM8:00らしく、少しでも合流の確率を上げるため先にバスターミナルへ向かうことにした。ただ、ATMで現金だけは下ろしていた。キャッシュレスへの転換はブラジルの方が日本より進んでいるくらいだが、まさかの4年前は聞いたこともないPIXという支払い方法をひたすら要求されることになる。どうやら送金サービスのようなものなのだが、利用するにはさらにCPFというマイナンバーのようなものが必要らしく、旅の途中何度か利用を試みたが全て徒労に終わった。海外からやってきた人たちには不親切な状況になってしまったように見受けられるが、何か方法があったのだろうか。いずれにせよ、高い手数料を払ってでも空港のATMで現金を下ろしたことは正解だった。
チエテバスターミナルに到着すると、もう一度4年前の思い出が蘇った。ホステルで出会ったマテウスというブラジル人と一緒にサンパウロを観光した記憶や、このバスターミナルでブラジルの人気ビーチサンダルブランドHavaianasを購入したことも。
ここは1階が発着所になり、2階にチケット売り場や飲食店が並んでいる。階段を登ってベンチの並んだ待合スペースまで移動し、荷物の見張りをJoeに任せてサカエさんを探しに歩く。広いバスターミナルとはいえ主なフロアはこの2階だけだ。クライミングギアを背負った日本人なんてそういるわけではないのだから、きっと見つかるだろう。そんな気持ちを嘲笑うかのように、サカエさんから数時間前にグループラインに届いた「ここで待ちます!」のメッセージに添付された画像には外の風景が写っていた。
バスターミナルの外へ出て、LINEの写真と同じ風景を探す。二枚の写真のうち一枚は特定できたが、もう一枚は分からない。なぜ場所の違う写真が添付されているのか。特定できた方の写真の近くをうろつき、恥も外聞も捨てて「サカエさーーーん」と叫んで回ったが気配がない。人とすれ違うときにスマホを盗られたりしないように注意しながらサカエさんを探した。
20分近く歩き回ったが見つからず、ひとまずJoeの元へ戻る。見つからないものはどうしようもないので、一旦近くのカフェで少し落ち着くことに決めた。荷物を持ってカフェに向かうと突然後ろから「ここにいましたか!」と声をかけられた。振り向くとそこにはサカエ・ナカハラがいた。
色々とツッコむ所もあったが、何よりも合流できてよかった。サンパウロ名物ポン・デ・ケージョ(チーズパン)とコーヒーを買って一服する。
ようやく三人が集まりホッとしたのも束の間、早速バスチケットを購入しに向かう。まずは中継地である「CAMPOS DO JORDAO(カンポ・ド・ジョルダン)」の文字が記載されたバス会社のカウンターを訪ねてチケットが欲しい旨を伝えると、裏手にある電子パネルに案内され、優しげな兄ちゃんが丁寧に使い方を教えてくれた。辿々しいポルトガル語でコミュニケーションを取りながら3人分のチケットを購入し、発着所へと階段を降りる。クライミングギアの詰まったどデカいバッグを二つ抱えた日本人はさぞ奇妙に映っただろうが、ボロボロの格好はブラジルを旅するには丁度いいかもしれない。
AM 10:00 予定通り到着したバスに乗り込み、遂に旅が始まった。ただ集まるだけで何度肝を冷やしただろう。サチ・アンマの「気をつけてね」という優しい声と菩薩のような微笑みがフラッシュバックする。
それでも、これだけクライミングに狂ったメンバーとこの破天荒な国を旅できる楽しみの方が遥かに大きかった。そもそもこの旅が波乱と危険に満ちたものになることはわかっていた。他にも安全で、刺激的で、感動に満ちた賢いクライミングはいくらでもある。
だけど、行かない理屈なんかより、ジェイの直感はオリジンズを登りたい
本当のジェイは”プロクライマー”でも”リードクライマー”でも”スラバー”でも”コンペティター”でもなく
”サラリーマン”で”回文家”で”懸垂師”で”住所不定”で
そして今から、伯剌西爾を登る!
第一州 サンベント・ド・サポカイに聳える大猿
〜サンパウロ州編〜 開幕
つづく
※この話は実際の人物・団体とは一切関係がないと思ってください
参考文献
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