最も意識の低い記事を目指す不定期連載「Juncyclopedia(ジュンサイクロペディア)」
第一弾はクライミング界における意識高い系話題No.1「スタイル」について、長い間感じていたことを綴っていきたい
先に意識の低い結論から申し上げるとJにスタイルはない。強いて言うならばスカルパクライマー「中川しょーいち」さんのスタイルないのがスタイルというのが近い。
ただ拘りのようなものはある。
また、そもそもスタイルという概念を提唱したり追求することをどう感じているかと言うと、それ自体は基本的に良いことだと思っている。
良いことだと思っているが、結果として自分は嫌な気分になることの方が多い。だからスタイル論はあまり好きではない。というのが自分の意見である。
矛盾しているように見えるが、順を追って説明していきたい。
これまた長文ですが、ノーマットスタイルに疑問を持っている方、「Jにスタイルなんてあったの?」と思った方、その他興味を持っていただいた方々、是非お付き合いください。
スタイルとは
そもそもクライミングのスタイルとは何なのか。使われ方がマチマチだが、「誰々のスタイルは云々~~」という会話で今まで見てきたものをザックリ書くと
- 登るときのシチュエーション(ノーマット、グラウンドアップ等)
- クライミングの種別(ボルダー派、リード派等)
- 登り方(ガンガン足を切っていくパワータイプ、ゆっくり丁寧に登るタイプ)
などがある
もちろん本記事は1番目のシチューエーションに関する話だ。ここに関して長年感じていたことがある。
どんなときに「スタイル」と呼ぶか
スタイルという言葉を使うとき、何故そのように表現出来るのかについて、自分は次のような基準があると考えている。それが
「すでにある選択肢を敢えて省くこと」
である。この”敢えて”という感覚こそが、「Jにスタイルはない」と断言する所以とも言える。
もちろんこの基準も間違っているかもしれないが、いずれにせよスタイル論について自分が感じている違和感の鍵になる感覚だ。
また、何故わざわざスタイルというのか。それは
「スタイルと呼称することでそうでない場合と明確に差をつける」という動機があると感じている。
この一線を画すということにより、そのスタイル以外の登りを軽視する結果につながっていると感じている。
何を持ってスタイルと呼ぶのかなど曖昧なところもあるが、まずは代表的なノーマットスタイルについて感じていた疑問点などを先に述べておきたい。
ノーマットスタイルについて思うこと
大きな主題から徐々に詳細な事柄について考察した方がいいのかもしれない。しかし、今回のテーマに限ってはまずこの象徴的なスタイルについてしっかりと言及した方が、スタイル論に感じている違和感などを伝えやすいと思っている。
ノーマットスタイルの良さ
ノーマットスタイルが話題になるとき、その「良さ」として目に入ってくる言葉が2つある。
「より自然なスタイル」
「初登者への敬意を表したスタイル」
さらに、この”自然な”という表現はフリークライミングの”フリー”に該当するであろう「より道具に頼らない」という意味を持って使われているように思えるが、どうやら”ネイチャー”の方の意味で使われている場合もあるようだ。
つまり、その岩の自然物として持つ魅力に下地も含まれている、という考え方だ。マットを敷くことで自然物との間に壁を作ってしまう。
さらに危険度が増し「よりリスクのある一手」を出すようになることから「冒険性が高い」という表現を目にしたこともある。
まとめるとノーマットスタイルについてよく聞く意見は
- 「道具に頼らない」という意味で、よりフリーなクライミングが出来る
- 下地も含めて、ありのままの自然を感じることが出来る
- 一手のリスクが増し、より「冒険性」を感じることが出来る
- 初登者への敬意を表すことが出来る
といったところだろう。
他にもJが気づいていないノーマットスタイルの良さがあれば、教えていただきたい。
また後述するが、一応自分も上記以外の要素でノーマットスタイルの好ましい点を自覚している。ただし「スタイル」という表現とは関係が薄いと考えている。
そして予め述べておくと、最後の「初登者への敬意」という点に関しては、特に言及するつもりはない。これは初登者と再登者の2者間の問題であり、初登者が「確かに敬意を感じた、よくぞマットを使わず登ってくれた!」となれば、それは成立しているわけだから、第三者の自分が口をはさむのは野暮と思っている。
疑問点① クライミングに影響を与える要素のうち、マットの割合はどのくらいか
自分の一番の疑問をざっくり言うと、「何故マットばかり取り上げられるのか?」ということだ
ボルダリングの三大ギアといえば靴、チョーク、マットの3つだろう
「より自然なスタイル」という表現を見たときに感じるのは、「ではこの自然度というものはマットを省いたときにどのくらい上がるのだろうか」ということだ
自然度はこの際「ネイチャー」の意味でも「フリー」の意味でも、その両方でもいい
仮に靴、チョーク、マットを全て使う状態を自然度0
これら全てを省いた状態を自然度100とする
ではこの3つのギアが占める割合はどのくらいだろうか
正直、自分の体感では、マットは20もないのではないかと思う
もちろんルートのタイプ、クライマーのタイプによって感覚は変わってくる。
小川山の「真夜中まで」などはマットはほぼ0だろう。むしろマットを敷くことで背中が当たる可能性が高まる。
瑞牆のザ・フェイスならわかる。マットが50くらいは占める気がする。
しかし、兎にも角にも自分にとって一番影響が大きいのはチョークだ
岩が真っ白になるという意味で「ネイチャー」の観点からも影響は大きいし、「フリー」という意味でも怪しい。性能の高いチョークを使うと、時には反則でもしているかのようなフリクションを感じることがある。
しかも手が滑ってしまうと、頭から落ちる可能性も高くなる。マットと同じくらい危険度にも影響してくる。
何故1番に残るチョークを使うのか。
もちろん「ノーマット」というスタイルだけが注目されたことの背景については、「開拓時になかったから」ということになるのだろう。さらにクライミングにおける難易度を共有する文化からも、「初登者に対して出来るだけフェアでありたい」という精神が影響していることと思う。
ただ、自分の感じる違和感はこの3つのギアに関することだけではない
疑問点② クライミングに影響する全ての要素
ここが本記事において最重要項目と言えるかもしれない。
前節は分かりやすくするために「シューズ」「チョーク」「マット」の三大要素を挙げたが、実際にクライミングに影響する要素には何があるのか?ということだ。
既に公開された岩場において、使用される道具としては先ほどの3大ギアとなるだろうが、自然の岩が登られるまでにかかる苦労を考えれば、クライミング道具以外の要素も沢山あると考えている。
この三大ギアの外側にこそ、Jが最も重視している要素がある。
ざっくりと書き上げると
「エリアの開拓」という観点から見れば、例えば恵那などでは公開当初は駐車場までの道がダート道だったのに対し、今では全て舗装され、キャンプ場も整備されている。
ここで書き上げた項目以外にも、自覚していないだけで自分のクライミングに影響を与えている外的要素はきっと沢山あると思う。
そしてそんな中で、自分がざっくりと感じている割合が次の通りだ
とにかく人の影響が大きい。特に最悪の事態を想定したときに、周囲に人がいるかいないかで結果は大きく異なる。
仮にマットが一枚しかなくても、常に欲しいところにマットが配置されることになる。課題によっては1人で3枚よりも、2人で1枚の方がいい場合さえある。
これが同様の理由として、電波にも感じていることだ。もし頭から落ちて気を失ったら?ハイボールの着地にミスってしまい、両足を骨折したら?助けを呼べない状況では地面を這いつくばいながら車まで向かい、激痛に耐えながら電波の入るところまで運転しなければならないのだろう。
そんな深刻な側面でなくとも、例えばツアーでは「金銭」に関わってくる。レンタカー代、宿代、諸々の準備にかかる手間やトラブル対応。協力し合える人がいるかどうかは大きい。
また、岩の掃除に関しては「ネイチャー」の部分に関わってくる。苔を削ぎ落とし、チョークに塗れた岩を登っていることは許容できるのに、下地がマットで埋め尽くされることを良しとしない、ということには違和感を感じてしまうからだ。
もちろんこれはあくまで自分が感じてきた平均値で、河原の岩だったら掃除の手間は少ないし、キャンパシング課題だったらシューズの要素は少ない。各々の要素がクライミングに与える影響の度合いは状況によってマチマチだから、一概には言えない
しかし、自分が感じている中で断言できることは、少なくとも自分にとって最もインパクトが大きいのは「人」である、ということだ
マットの使用によって損なわれているものとは?
ここで、改めて自分が感じている違和感をまとめておきたい。先の2つの疑問からして
- より道具に頼らない
兎にも角にも「シューズ」「チョーク」の影響は大きい。「恐怖感」が問題だとして、個人的には「人がいるかどうか」の方が恐怖心に与える影響は大きい - 冒険性を感じる
同様の理由で、個人的には「人がいるかどうか」の方が恐怖心に与える影響は大きい - より自然を感じる
苔を削ぎ落とすこと。チョークを使うことも同様に感じている - 開拓当時になかった
開拓当時になかったものとしては、「最新シューズ」「最新チョーク」なども同じであり、場合によっては「電波」「情報」などもある。
などだ。言い換えると、「マットを省くことでその感覚が得られることは否定しない」が「マット以外の重大な要素については触れられないことが違和感」ということだ。
「より高尚なスタイル」「優れたスタイル」という表現を見た時に思うのは
「確かにそうかもしれないけれど、マット一つ取って言うには、他にも沢山の要素があるのではないか」と感じてしまう
Jのスタイル
ここで冒頭で述べたJの拘りについて述べたい。そしてそれをスタイルとは呼ぶつもりもない理由も。
それは、たとえ一人でも登るというということだ。
誤解を招かないように伝えると、一人で「も」という点だ。「一人で」ではない。
そもそも自分は「ボルダリングがメイン」と思われることが多いのだが、心情としてはリードもマルチもトラッドも同じくらいやりたいと思っている。
しかしリード・トラッドにおいては人のインパクトがさらに大きくなる。
ボルダリングに傾倒しているのは、ボルダリングならではの瞬発系の動きが得意であることだけでなく、何よりもボルダリングは一人で完結できるポテンシャルがあるからだ。
その拘りとスタイル論の繋がりについて、述べていきたい。
難易度を構成する要素
仮に世界中の岩が今いる位置から等間隔の距離にあり、全く同じ条件でトライ出来るとしたら、どの岩のどのラインをトライするだろうか?
1番トライしたいラインが思い浮かんだとして、今それをトライしない理由は何だろうか?
ここで自分が思う2つのこと、それは「難易度を構成する要素」と「やらない理由」だ
詳しく述べる前に、一つ自分にとって大事な考えがある。
それは「意思のあるものはコントロール出来ない」というものだ。
既に述べたように「人」という要素は自分にとって影響が非常に大きい。
この影響というのは単純に「登りをどのくらいサポートしてくれるか」だけではない。そのサポートを確保できる「確実性」も合わせて一番大きい。
前節のクライミングに影響を与える要素をさらに発展させ「不確実さ」×「登りに与える影響」の掛け算で各要素を評価し直したとき、さらに「人」という要素は重大なインパクトを持ってくる。
例えばノーマット以外のスタイルで「ミニマムボルト」というものもある。極力ボルトは使わないことに美学を感じることだ。
しかし自分としてはマットなどの道具と岩場のボルトなどは全てのクライマーに等しく開かれている。
(南米やアフリカのクライマーにとってはそうとは言えないかもしれない)
それは岩場の開拓者、ギアの開発者の苦労を持ってして普及してきたもので、ありがたいことに全てのクライマーに対して平等に使用出来るチャンスが与えられている。
少なくとも先進国でクライミングしていればそれらを確保する「確実性」は十分に高く平等なものだ。
しかし、先程の「意思あるもの」である人という要素は不確実であり、一緒にクライミングをしてくれる仲間に会えるかどうかを全て自分でコントロールすることは難しい。
もちろんこれは自分の対人スキルが低いだけとも言える
SNSで使ったことのないワードダントツ一位は「#ゆる募」だ
仲間を集める「人望」もまたクライマーの大事な要素というならそれまでだが、来たいとも思っていない人にその岩場に来てくれと頼むのも気が引けるし、それが結局自分のプレッシャーになるのも好きではない。
もちろん募集しておいて、誰も集まらないとなっても寂しい。
同じ岩場に来たいと思ってくれて、一緒にクライミング出来る人に出会えるのは非常に運のいいことだ。
そしてブラジルの僻地の岩を登ろうなどと思ったときには、その岩の持つグレードだけでなく、トライする環境を整えることも重大な要素になってくる。
冒頭の疑問「とにかく一番登りたい岩を登る」ことを考えたときに、それを達成する難易度というものはグレードだけではなく、現地に行くまでの移動の過程、岩場の情報、道具の確保などの環境を整える困難も含まれる、と考えている。
やらない理由
そして「人」という要素に依存してしまうと途端に自分の目標は「不確実」なものになる。
なんとなくではあるが、自分は死ぬまでにどうしても登っておきたいラインというものに出会ったときに「一緒にやる人がいてくれたらトライする」という理由で断念したくない。
マットがもっと必要というならば、その気になれば3つでも4つでも持っていけば良い。
いつ現れてくれるか分からない相手に依存しきってしまい「誰かいてくれたらな~」とだけ言い続けることが忍びない
同時に、一人で「も」というニュアンスもここから来ている。
意固地になって一人で登るつもりはなく、助けてくれる人がいたら十分に甘える。フォルタレーサもエアースターも最終的にはスポッターに助けられた上に、シャンバラも白道も完登のときにはセッション相手がいた
誤解だけは避けたいのが、「一人でも登れたし!」なんて意味合いではなく、「一人でトライすることを前提として挑んでいる」というだけである。
つまり、居合わせてくれた方々にはむしろ人一倍感謝している。ないと思っていたスポット、出会えるかどうかも不明なビレイヤーに会えたのだから恵まれていると思っているし、本当に感謝している。
それこそ本当に「いてくれる」だけでもいい。重症を負ったときに助けを呼んでくれるというだけで、一人でいるときよりもリスクを負える。ビレイなんてしてくれようものなら神と崇めたくなるほどに感謝する。リードやトラッドなど一緒にトライしてくれるのであれば大歓迎である。
「たとえ一人でも」挑戦するのであり、敢えて一人で登るということはない。
だから、スタイルというほどのものでもない
冒険性という言葉について
ここで愚痴を一つ言いたい。そもそもこのスタイル論を何故書いているのかと言えば、この愚痴が言いたいからとも言える。
自分も冒険という響きにはワクワクする性格であるし、ボルダリング以外のクライミングもやりたいと思っている
人生で一番叶えたい夢は何かといえば、ズバリ「エンジェルフォールを登ること」である。
落差979m、ベネズエラのギアナ高地にあるテーブルマウンテン「アウヤンテプイ」を流れ落ちる世界最大の滝である。
世界一周中、どうしてもここだけは立ち寄りたく、大枚をはたいて見に行った。
ベネズエラの首都カラカスは非常に治安が悪く、歩きスマホをすれば手首ごと盗まれると言われる場所だ。その街を経由し、カナイマ国立公園へ飛んだあとはグランサバナと呼ばれる熱帯雨林を蛇行する川をモーターボートで3時間ほど遡行し、そこからジャングルの中を1時間ほど歩いてようやくビューポイントに到着する。
ジャングルには通称弾丸アリと呼ばれるパラポネラも生息している。
これだけでもう大冒険である。ツアー会社に丸投げのプランだが、それでもドキドキした。
人、動物、自然、あらゆるリスクを超えて1000m級の壁を登りきれたらどれだけ素晴らしいか。願わくば登りきったあとはテーブルマウンテンの上を歩き、反対側の村へ抜けるような冒険をしたい(反対側の村まで歩くのも3日くらいはかかるらしい)
もちろんこれは空想なのだが、そうでなくともブラジル一人旅やメキシコクライミングには様々な不安と恐怖が伴ったし、一人暗闇で犬に後をつけられたときは恐怖におびえていた。
1枚のマットをどこに置くか吟味し、小核心のパートは実質ノーマットで登り。たまにミスをしつつ、Tシャツやダウンジャケットで尖った地面を隠しながらトライしていた
トライに至るまでも、トライしている途中もリスクを感じ、ヒリヒリしながら登りきったのには確かに格別の達成感があった。
しかし、
高名なクライマーたちが「皆に等しく開かれた道具を敢えて省き」「みんなで」ノーマットで登りましたと言い、「マットなし」という点を強調した上で高尚なスタイルと謳われたら、寂しいものがあるでないか!
それだけならいい、間違ったことを言っているわけではないだろうし、自分には自分の流儀がある。
気にしなければいいだけの話だ
だが、「Jはスタイルとか気にしないもんね」とか「俗っぽいとこあるもんね」とか、「Jすぐムーヴ見るんでしょ?」とか、まるで自分のクライミングが貧しいものであるかのような言われをすれば、嫌な気持ちにもなるじゃないか!!
誰もがアクセス出来る動画サイトでムーヴを見ることはずるくて、セッションしながらムーヴを探ることはOKなのか?何なら後者の方が情報量は多いのではないか?
それで冒険性なんて言われたら、マット一枚引きずって地球の裏側まで登りに行った俺の冒険はどうなんの!?
余談① 尊敬するクライマー
自分の嘆きは一旦置いといて、自分の理想とするクライミングをしているクライマーがいる。
それが白道・ハイドランジアを完登したサラリーマンクライマーのNオさん。
狙った課題を登りきるまで不屈の精神でトライを重ね、有無を言わさず単身覚悟でビショップへ行く姿勢はとても尊敬している。
ここでいう尊敬は「この人のようにありたい」と思うことである。
トモア君のような第一線のクライマーたちにも尊敬の念を持っているが、自分はそうなりたい訳じゃない。勿論なれるものならなってみたいが、少なくとも今そこを目指してはいない。
N尾さんのようなクライミング、海外ではベルントツァンガール、アレックスオノルドのようなクライマーに憧れる
クライミング外との関わり
さて、ノーマットの話ばかりしたが、「動画を見ない」「グラウンドアップ」「ボルトを使わない」など様々なスタイルがある。このままではこれらのスタイルに「単身で挑む」というジャンルを追加しようとしているかのようなブログになってしまう
もちろんそんなつもりはサラサラない。
その大きな理由として、そもそも「クライミング界」と「一般社会」の関係を見たとき、大抵のスタイルは「健全でない」と感じているからだ
クライマーでない方がそれをやるとしたら
これは日本のトップ・オブ・ザ・トップである高田選手がブログに書き起こしてくれたことに近い
トップ・オブ・ザ・トップの彼が自身を十分に強くないと言っていること以外は概ね同じ意見であり、2番煎じになってしまうが、一応自分の言葉で意見を述べておきたいと思う。
また彼のようなトップ選手が声を上げるというのは勇気のいる行動だったと思っており、先にその点に関しても大切な意見を述べてくださったことに感謝を述べたい。タカタありがとう。
先程の「健全でない」という表現は、具体的にいうと「クライミングにおけるより良い行為」が「社会にとって良くない行為」になっている、ということである。早い話がWin-Winでない、ということだ。
自分も「道具の補助を限界まで削ぎ落とし、困難に挑む姿勢」には感動を覚える。そもそも、「曖昧なものに頼りきりたくない」という気持ちがあるだけで、やっていることに近いところはある。
ではクライミング界を取り巻く外の社会から見たときに、それらはどう映るかと言えば、その姿勢はマイナスでしかない。
タカタくんの記事では「クライミングの文化が潰える」というクライマー側の損失について触れているが、もう少し言うと「社会にとってもマイナス」という面もある気がしている。
例えばクライミングというアクティビティが文化として成熟していて、ある人が「クライミングの世界にのめりこむ」ことを考える。
このとき
①安全に配慮した上でクライミングというアクティビティを楽しむ
②ノーマットスタイルなど、より高みにあるスタイルに挑む
の2つのパターンを考える。
①であれば、新しくハマった人は「生きがい」を見出し、幸福度があがる。自然の中で運動することで健康になるかもしれない。地域にお金が落ちて経済にも好影響を与えるかもしれない
②であれば、クライミングにハマった人は大怪我をし、その家族、友人が悲しむ可能性が出てくる。社会は労働力を失う。地域の人とのトラブルもあるかもしれない
クライマーが「より良いもの」を求めれば求めるほど、その周囲の人は不幸になる可能性が高い。
ノーマットスタイルを推奨する結果になれば、「ハマると身を滅ぼし、周囲を不幸にする可能性がある」という点から、社会的にもクライミングは不健全な遊びとなり、ギャンブルと同じように認識されてしまうのではないか、とさえ思う。
何より、自分の家族や友人が「フリーソロ」をする、と言い出したら、自分は辛い。
トール君の挑戦はクライマー目線からは素晴らしいと感じることができるが、一緒にツアーをした友人が死んでいたかもしれないと思うと怖いところもある。自分の家族にクライマーはいないので心配してはないが、家族が「フリーソロする」と言い出したら気が気でない。
「一人で登りに行く」ということだって健全ではない。映画「127時間」のようなことになったっておかしくはない。
「ブラジルに一人で行ってくる」と伝えたときも、そこそこ心配された。自分がやっていることは家族に心配をかける行為で、その姿勢を「良いこと」のように表現する気にはなれない。
多少の罪悪感を感じつつ、それでも自分がやりたいからやっている、といったものである。
そういった意味でも「敢えて」道具を省き、リスクを高めるスタイルはあまり好きではない。
余談② 疾風怒濤
余談だが自分が学生だったころ、とある定食屋が京大ウォールの近くにあった
ここは昼定食が500円という素晴らしいコスパであり、こじんまりとた店内に漫画が大量に積んであった。学生時代はしょっちゅうここで漫画を読みながら過ごしたのだが、通い過ぎて気になる漫画はだいたい読み終えてしまった。そのとき何となく手に取った漫画に「疾風怒濤」というものがあった。
この漫画は中学時代まで何をやってもパッとしなかった主人公が高校で剣道に出会い、打ち込んでいく剣道漫画である。剣道漫画であるのだが、途中主人公が”真剣”勝負に魅かれていく展開がある。
真剣勝負というのは辞書に書いてある意味の真剣ではない。文字通り真剣で闘うのである。日本刀を持ち、防具を身につけない戦いにこそ本物を見る、というシーンである。
もはや全体のストーリーもおぼろげだが、フリーソロに挑むクライマーの思想に似ている気もした。
クライマーでない人がフリーソロクライマーを見たときの気持ちは「防具をつけず、真剣での戦いこそが本当の戦い」と主張する剣道家を見るような気持ちなのかもしれない
それでもスタイルを突き詰めることは良いことかも
ここまで話したが、実は自分は「初登者への敬意」とか「自然への敬意」という考え方に対して、否定的な感覚は持っていない。
~に敬意を表す、と言ったような「クライミングと向き合う時の姿勢」というものをどう捉えているか、それは食事の前の「いただきます」という発言にも近いものと思っている。
余談③「いただきます」は言う必要があるのか?
一人暮らしを始めてから言い忘れることが増えたが、せめて心の所作として、気づいたときには思うようにはしている
「いただきます」という発言はする必要があるのだろうか?
料理を作ってくれた人に対する感謝の意味はあるが、「命に感謝」という話になれば、やはりそれで感謝の意が伝わることはない。
既に命のない調理された料理に向かって言っても意味はないし、仮に生きていたって植物や動物はまず言葉を理解してくれない。合理的に考えれば「無意味」だ。もし言われる側に自分がなったと想像すれば傲慢な発言にすら思えてくる。
けれど自分は「いただきます」と言う。
小さい頃に「命に感謝して」「いただきます」というと教わった。トリコも言っている。
それは自分が大切にしたいと思っている「考え方」や「文化」だからだ。
自分は「感謝の気持ちを持てる人に育って欲しい」「謙虚さを持った社会であってほしい」という願いがあるからこの文化が続いてるのではないかと考えている。
「言葉の通じないただのカタマリだから言っても無意味」とかではなく、「感謝の意を持ち、さらに言葉にする」という行為にまで繋げる。
「自分の力で手に入れたもの」ではなく、「恵んでもらったもの」として捉え謙虚に生きる。
それは例えば野球部員がグラウンドに向かって「礼」をする行為なんかもそうかもしれない。
これが正しいかどうか、なんて話になるとまた議論は大きくなってしまうが、少なくとも「いただきます」「ご馳走様でした」という文化は根付いているし、そう教わることも多い。
クライミングにおいて、山や岩は「自然の恵み」と考え、そこに感謝と敬意を表する。
ここで「本当に相手に伝わっているか」を重視するのではなく、「そういう姿勢を持ったクライマーでありたい」と思うことが大事だと考えている。
だから、それぞれのクライマーが「ブラッシング」や「ゴミ拾い」をする。クライミングを始めた子供たちが自然を好きになり、自然に感謝することを学ぶ。もしかしたら自然を守ろうと思う気持ちが芽生えるかもしれない。その流れが良いものかどうかはわからないが、自分は素敵だと感じる。
だから自分は「敬意を込めたスタイルで登る」という行為を可笑しいとも思わないし、むしろ素晴らしいと思う。
そして高名なクライマーが「ただ登れればいい」ではなく、そうした「姿勢を示してくれる」ことは良いことだと考えている。
ということで、最初の結論に辿り着く。
「自分の中で完結してれば良い」「ごく身近な人と共有出来れば良い」と言ったのは、例えば一人暮らしでも食事の前に「いただきます」と言うように、例えば自分に子供がいたら命に感謝して「いただきます」と言えるような人に育って欲しいと願うように、「自分がそうありたい」と思う姿勢だからだ。
同時に、周囲にその姿勢を押し付けるつもりはまったくない。「いただきます」を言わない人を見ても悪いことと思わないし、もしかしたら別の方法で感謝しているかもしれない。
そして「ノーマット」のような敬意の表し方や自然の感じ方は、例え話で言えば「火を通さずありのままいただくのが敬意」とでも言うような、「社会的には健全でない」敬意の表し方だと思っているので、自分の中だけで完結しておきたい。
余談④ Jが理想とするノーマット
ちなみに自分も何度かノーマットで登ったことがあるが、1番良かったクライミングがある
ボリビアのウユニで登った岩だ
これは良かった
グラウンドアップ
ノーチョーク
ノーマット
ノーシューズ(またはアプローチシューズ)
そしてノー酸素(標高4,400m)
何故この状況で登ったかと言えば、それしか選択肢がなかったから。ウユニ周辺の観光ツアー中に出会った岩なので、クライミング道具は全て宿に置いてあった。ここに”あえて”という感覚は一切なく、かと言って”道具がないから諦める”という発想もない。
因みにこのラインは一回ランジで落ちている。多分V3くらい。
海外に行くときに、マットのような大きい道具はとにかく運びにくい。
こんな感じで登りたい岩にバッタリ出くわした時のための練習のために、普段から道具のない感覚に慣れておく、という意味でノーマットで登ったりするのは自分の好きな登り方の一つではある。
これが冒頭で少し述べた、ノーマットのいいところ、である。そして「敢えて」とかではなく、そもそも無いのだから今回の自分の定義ではスタイルと呼ぶものでもない。
スタイルの伝言ゲーム
さて、主張が行ったり来たりになるが、やはり「スタイル論」は好きではないもう一つの理由がある。
ここまで読んで、やや被害妄想的な記事と感じている方もいるだろう
例えば「ムーヴを教わらずに登る」「道具に頼らず登る」
そしてプロクライマーは沢山トレーニングを積んで、さらに自分の納得の行くスタイルで登る
これは良いことだとする
そこから得られた感覚などをSNSで主張し、世間に浸透する。
それもいいことだとする。
「ノーマットスタイル」「グラウンドアップ」という言葉が広まり、若いクライマー、新しく始めたクライマーがその言葉から、完登という結果だけでなくその過程に新たな価値を見出す
これもいいことだとする。
が、しかし
このとき、道具を使う通常の登り方はイーブンであり自分は「悪いことではない」と思っている。
それでも、世の中一度「差」をつけてしまえば、そうはいかない。
一度差が付けば、
「え、見ちゃうんですか?」とか「ジムみたいにマットを敷き詰めて登って嬉しいのか?」とか、そんな意見が聞こえてくることもある。
けど、岩を決して傷つけることなく、「完登」を目指す姿勢に差がなければ、種類が違うだけで、上下などなく評価されていいじゃないかと思ったりもする。
少なくとも自分はサラリーマンクライマーを尊敬している
自分で働いて稼いだお金で道具をしっかり揃え、BCAAなども活用し、あらゆる動画から可能性のあるムーヴを模索し、下調べを入念に行い、限られた時間の中で完登を掴み取ったとする。
しかし、それで「動画を見た」「マットを沢山積んだ」と、なるのは何だか悲しい
優劣はないだろう、と思う
ノーマットで登った人がノーマットの良さを語るとき、他のスタイルを落とすような言い方はしてないことの方が多いと思うが、言葉ばかりが流行ればそうはいかない
落とすような言い方をしているケースもある。ユーチューブが流行り出したときは「自分で考えることこそクライミングの醍醐味」「そんなんで登れて嬉しいのか?」といった口調の主張も見た
しかし、伝言ゲームよろしく、結局はそこに相対的な差を作り出したことによって、次第に一部では「邪道」であるかのような見識を持たれることがある
はじめたてのクライマーなら、その影響も受けやすい
次第に 良いvs悪い になってくる
事前に動画でムーヴを見ることを、情けない行為としたり
マットを複数敷くことを道具に頼ってる、なんて言ったり
チョークや靴には特に触れず
「人」という要因は検討すらされない
海外の岩を登るために「ツアー代を稼いだこと」や「語学力を鍛えたこと」といった努力は議論にも上がらない
前節で「スタイルについて語られることは良いこと」と述べたが、その「差」が生まれたせいで不快な思いをする人が出てくるケースがある。
自分はと言えば、どちらかというとこのマイナス面の影響の方を大きく受けている、と感じている。
結局この記事で言いたいこと
大体思っていることは書いたが、ここでジュンサイクロペディアの一番大事な姿勢を念押ししたい。
サブタイ候補は”世界一意識の低い記事”である
この記事は「人という要素が最も大事である」とか「ノーマットやミニマムボルトなどの危険度を高めるスタイルへ警鐘を鳴らす」といった類の意識の高い記事ではない。
拘りと書くと意識が高く見えるが、その方が楽なだけである。敢えて困難を選んでいる訳ではない。
これはあくまで、世の主流なスタイルに迎合できず、ときには「プライドなんてないよね」とでも言われているかのような言葉を投げかけられ
(※実際にそんな侮蔑的な言われ方をしたことはないですが)
長いこと、ゆっくりと傷が蓄積されてきたJの自尊心から来る
ただの悲鳴である
自分なんて、と謙虚に言いすぎるつもりもない。もちろんトッププロのような立場でもない。片手懸垂師兼脱サラサポートクライマーという中途半端な肩書きだが、ブログ・SNSを通じて「自分の把握しているコミュニティ外の人たちにも読まれている。」という事実から目を背けるつもりもない。
だから、僕みたいな一般人が~、とか、弱いクライマーの意見なんで無視してもらって~なんて言うつもりはないし、書いた以上は読んでいただけたら嬉しい
読んで不快な気分になった方がいたら申し訳ない
ただ
「どうしても登りたい」と思える岩に出会い
情報も十分にない中で地球の裏側まで向かい
圏外の岩場で
単独で怪我してしまうリスクや
犬にあとをつけられ、狂犬病のリスクに怯えながら
重たいマット一枚引き摺って
核心以外マットなしで挑み
何度か岩盤に体を打ちつけながら
最後には現地のクライマーの助けを借りて
出会いに感謝しながら登った
オレの冒険はどうなんの!?
最後に
よくある結論で「各々が納得するスタイルで登れば良い」というのがある。自分も同意である。
スタイル云々を語るのは個々の自由だと思っている。
ただ自分の価値観と世間の風潮がズレるのは寂しい。ましてやそのズレにより「俗っぽい」「すぐ見るんでしょ?笑」なんて言われたときには、自尊心も傷つくというもの。そうでなくとも、その風潮の中で「●●こそが本物のクライマーだ」とか「■■であることこそが、クライマーとしてあるべき姿」なんて発言が飛び交っていたら、遠回しに否定された気分にもなる。1回1回は大したことなくても、何年もかけて蓄積された鬱憤もある。
今回はそんな寂しさを綴った記事だった。
しかし、やはりクライミングの”質”というものを追い求める行為は尊いものだと思っているし、そもそもこんな寂しさを覚えてしまったのは世間に迎合できていない自分にも非があるのかもしれない。
「人という要素が最もインパクトが大きい」というのは裏を返せば自分の人望・コミュ力に難があるということだ。ハナからそこに壁を感じなければ、マットやシューズといったギアに焦点を当てられただろう。
何より、単身で岩場に行くよりもずっと健全だ。
よりクライミングの質を高め、この素晴らしき文化を享受し、健全で楽しくクライミングを続けるためには「人という要素は不確実」などと言ってはいられないのではないか。妬みにも見えてしまう記事を書いて閉じこもるよりも、より彼らの思想に共感できるようになった方がクライミングを満喫できるのかもしれない。
そうなるための第一歩を記して、この記事を締め括りたいと思う
#エンジェルフォール
#マルチピッチ
#ゆる募
参考
ベネズエラの治安
Scarpa PV 中川翔一+BOOSTIC
127時間
コメント