【Juncyclopedia】才能は傾きで考えたい

Juncyclopedia

久しぶりの更新はまさかの第二回Juncylopedia

今回のテーマは「才能」について

クライミングを続けていて、次のような言葉を耳に(目に)したことがある

 

「三段までは努力すれば誰でも登れる、四段からは才能がいる」

 

最近はクライマー全体のレベルが上がったことや挑戦できる四段が増えたこともあり、「四段までは努力、五段からは才能」に変わっているかもしれない

フォンテーヌブローでもおかずさんとこの話題になったので、Jの妄言ということもないだろう。ただ、誰が言い出したかは知らない。

一方で、ネットフリックスにもアニメが公開されたブルーピリオドで、美術部の森先輩が次のような発言をしている

 

「凄い才能ですね」と言うコメントを受けたり、画面の向こう側でトップレベルの人が「自分は才能無いんで努力しました」というコメントをしたりすると、「まるで自分の努力が足りない」かのように捉えてしまう人もいる

これは特に誰を否定している訳でもないのに、否定されたように感じてしまう聞き手側の卑屈さも多少はあるとは思う。

また表現こそ違えど、クライミングにおいても「リーチがあっていいですね」「フィジカルあって羨ましい」、「センスがない自分は・・・」と似たような表現はいくつもある

そして例え同じセリフでも言い方一つで真逆の印象を与えてしまう。

ましてや文字だけで伝えようとするとあらぬ誤解を招きかねない。

 

自分は「才能」という言葉は文脈によって称賛にも嫌味にもなる扱いづらい言葉の一つだと思っている。

 

有名なエピソードがある。藤井こころ君がオガッチとセッションしたとき、オガッチの登りを見たこころ君が「俺クライミングの才能無いわ」と発言した(らしい)

ワールドカップチャンピオン、世界選手権のチャンピオンが「才能が無い」と発言した。

こころ君に才能ないなんて言われたら、最早オレはクライミングしてないに等しい。

今までの14年間はただキツい靴を履いて懸垂してただけだ。

 

それならば自分だって言いたい。「才能ないので、ひたすら努力してきました」

これまでのクライミングはあくまでトレーニングの積み重ねの結果としてあるものだと

 

先天的に運良く与えられた特権を使って成果を出しているのではなく、全ては努力の末に習得した後天的な能力による成果である、とアピールしたい

 

とはいえ一方で、「そうとも言い切れないな」と思うことも多々ある。

 

そんな「才能」や「持ってる、持ってない」と言った。うまく説明しきれない「何か」について感じていることを前回同様、Jの個人的な見解や体験を踏まえて綴っていきたい。

 

はじめに 

前回から大分空いたので、改めて本記事の趣旨を書いておきたい。

 

才能の話になると「人の登りを気にしたって仕方がない。自分のクライミングをすることが大事」という結論がよくあると思う。自分も同意見で、人と比べるクライミングに囚われたくはないと想っている。

しかし、わざわざ自分にそう言い聞かせなくてはならない程には、気になってしまうのである。まぁ、負けず嫌いな性格でもある。

 

Juncyclopediaはそんなモヤモヤなどを徒に書き連ねる記事ですので、特にこれといった結論などはありません。どちらかというと「どうしても多少は気にしてしまう人間であるJ」が「出来るだけ気にしないため」の考え方を書き連ねています。

そして何度も言いますが、あくまで個人の見解です。

 

才能とは

広辞苑辞書では

 

”ある物事をうまくなしとげる、すぐれた能力” とある。

 

辞書によっては「生まれつき持った能力」と書かれていることが多い。

クライミングをしていると「リーチも才能」という表現を聞くことがある。(この場合はズルなどではなく、立派に持ち得た能力という意味だと思う。)後者の辞書の定義にも合う気がする。

 

もう一方で初めてジムに来た人が、教えてもないのにクライミング特有の動きをキレイにこなしたりすると、凄い才能だなとか、センスがあるな、と感じたりする。

才能という言葉を使うとき

 

①リーチなどの「生まれ持った素質」「努力では手に入らない強み」

②「練習によって獲得する技術の習得率(伸び率)」

 

の2つがあると思う。

本記事は主に②に関する伸び率に関する話である。

しかし後述するが、①と②の間に明確な境界はないとも考えている。

なお、「努力できる才能」という表現や「好きこそ真の上手なれ」という言葉もあるが、今回はこのあたりの「どれだけ練習量をこなせるか」や「メンタル」に関する要素は才能という表現とは切り離して考えたい。

 

才能は傾きで考えたい

先に結論から書くと、タイトルの通り才能というものは傾きで考えたいと思っている。

簡単に書くと、つぎの式のaにあたる数値だ

y= ax + b

実力(y) = 才能 × 努力(x) + 初期値(?)

言い換えると才能は0か1かではなく、誰もが持っていて人によってその度合いが違うものと捉えている。

そして「あの人は才能がある」「自分に才能はない」というのはあくまで相対的なものと考えている

それはそうだろ、と思うかもしれないが、本記事ではこの考え方が基本になる

もちろん、こんな1次式で表せるほど単純ではないだろう。始めたてが一番伸びるし、どこか収束するポイントがあるからこんな感じかもしれない

 

縦軸が実力、横軸が練習量。

 

さらにこれが階段状に繰り返されるものかもしれない。

 

努力(x)の中身もさらに時間×密度に分けられるだろう。

 

実力の伸び方に関しては考えることが多すぎる上に専門外なので、ひとまずこれ以上は考えない。一次式へと単純化して、傾きと捉えたい

 

また、冒頭の「~段までは、~段からは」というのは傾きよりも上限値(赤線)の議論なので、このあたりも話がややこしい。

ただ「同じような努力をしてるのに・・・」という仮定に基づいた見解があるので、実質この上限値も才能(傾き)とリンクしていると考えていただきたい

 

余談①:室伏広治に出会ったショウエイの気持ち

早速の余談だが、自分が初めて「才能」というものに打ちひしがれたのは、ナカジマ・トール君とスイスツアーをした時だ。彼と一緒に登ったとき、「どう頑張っても彼のような登りは出来ないな」と感じた。

理解が追いつかなかった。そのへんのホールドで単純な保持力や懸垂力を比べたりすると、決して彼のほうが優れているわけではない。しかし、彼のあまりにも淀みない登りをみて、とても同じホールドやスタンスを使ってクライミングしているとは信じられなかった。

自分がどう努力を積み重ねても彼のようなクライミングは出来ないと感じた。

 

ポジティブに捉えるなら、タイプが違うだけ、とも見れる。戦士がいくらレベルを上げても魔法を覚えることは出来ない。彼の登り方と自分の登り方は別のタイプであって、「彼のようになれない」というのは「自分が劣っている」ということとイコールではないかもしれない。

 

それでも、「才能がある」何て思えなくなった。彼を前にすべてのクライマーは所詮「人」なのだ。

 

これは全くの想像でしかないが、このときの感情をいつも自分は室伏に会ったショウエイの気持ち、と表現している。ショウエイ選手もアスリートなのだが、室伏選手の圧倒的な身体能力や、練習への意識の高さに感銘を受け、勝てないと感じている。

・直前に投げ方を教えてもらって、国体2位

・初めて滑るボブスレーでもNo.1

など室伏伝説には枚挙にいとまがない

室伏広治伝説を旧友・照英が語る「やったことがないやり投げに出て、いきなり国体2位ですからね…」(谷川良介)
学生時代にやり投の選手として活躍したタレントの照英さん。『筋肉番付』を始めとしたスポーツバラエティでも身体能力の高さを発揮し、その後はオリンピックや世界陸上などのキャスターとしても活躍されています。そんな照英さんが学生時代に多大な影響を受けた

 

こんな気持になったのはトール君と登ったときと、旭山動物園でテナガザルのキャンパスを見たときぐらい

 

厳密には差がない

さて、当初「リーチ」などの努力ではどうしようもないものは別としたが、実はそれ以外の項目との間に明確な差があるとは思ってはおらず、せいぜい幅があるだけと思っている

例えば最近の研究では筋力の付きやすさはある程度遺伝で決まっている、という報告がある

 

例:握力

握力 | 遺伝子検査・DNA検査のMYCODE(マイコード)

 

実際に自分も日体大の研究の一環で細胞サンプルの提供をしたついでに調査してもらった結果、「筋力の付きやすい遺伝タイプ」だった

つまりこの時点で、そうでない遺伝タイプの人よりは筋トレの「伸び率」は高いわけだから、今回の自分の才能の定義で言えば「(相対的に)才能はある」人間である。

散々トレーニングをして身につけたフィジカルなので、「そんだけフィジカルあったら登れるよ」などと言われてしまえば虚しくもなる。しかし、もしかしたら相手も同等のトレーニングを行っている可能性があり、自分にフィジカルがあるのは本当に才能のおかげかもしれない。

リーチも「骨格」が決まっているせいで殆ど変化しないが、姿勢や柔軟性で数cmほど変化することはある。逆に遺伝子情報を努力で書き換えられる人もいないだろう。

 

リーチ、筋肉量、柔軟性、連動性はそれぞれ伸ばすためのメカニズムが違うので、本記事の「才能」とは分けて考えるがいいのだろうが、完璧には分けきれないのではないかとも思っている。

クライマーXが取りうる能力値の範囲

 

とはいえ、本記事でもリーチに関しては一旦置いておきたい。

 

天才と凡人と「出来ない人」の基準は恣意的なもの

 

さて、本記事において一番自分が言いたいことはここからである。

 

才能は傾きで考えたい、と題した。トップレベルのクライマーたちは平均的なクライマーに比べて少なからず才能は大きいと思う。しかし強いクライマー同士で集まってしまえば、その集団の中で相対的に見てしまい”自分は才能がない”と感じることもあると思う。

 

しかし、才能が相対的なものであるならば当然「天才」vs「凡人(=平均的)」だけでなく、「平均」vs「才能の乏しい人」においても同じ構図が生まれる。なので自分は天才・凡人に2分するのではなく、天才・凡人・出来ない人の3つに分類したい

 

そして「凡人」と「出来ない人」の境界線で使われる言葉が”普通”や”当然”という言葉だと捉えている

 

「誰でも出来る」「普通」「当然」といった言葉が使われるとき、はたして本当にそうだろうか、と思ってしまう自分がいる。

 

改めて、自分は才能は傾きと考えたいと思っている。そして同じ努力量に対して一定以上のレベルに到達した人が「天才」と呼ばれ、逆に多くの人が到達出来た一定のレベルが「普通」「当然」と呼ばれる、と考えている。

 

そして、この基準となるラインは結局は個人の恣意的なものであり、場合によっては偏見だと思う。

(厳密に統計を取り、”上位下位何%以内を・・・とする”のように定義されているならばその限りではない)

 

一度はトール君を天才であり、自分を凡人だと感じたわけだが、結局はそのように区切りたいJの願望であり、その境界線は曖昧なものだとも思っている。

 

余談② 縄跳びは不自然な動き

 

運動センスについて、縄跳びのプロから聞いた話で面白いと感じたものがある。

縄跳びは非常に”不自然”な動きという話だ。

それは「手を下げながらジャンプする」というところにある。

立ち幅跳びのような動きを行う際は、通常飛ぶと同時に腕を振り上げる。

しかしながら縄跳びでは縄を振り下げながら飛ぶので、これまで習得してきた動きとは違和感が生まれる

 

そしてこの違和感は練習で克服出来るわけだが、ざっくりと次の3パターンに分けられる

・いきなり飛べる人

・練習で違和感を取り除き、飛べるようになる人

・違和感を取り除くことが出来ず、飛べないままの人

の3つである。

 

2つ目が殆どであり、それ故に縄跳びが出来るというのは”普通”と言われるのだろう。教わってもいないのにいきなり最適な動きを起こせる人が天才と呼ばれ、高難度のトリックをドンドン覚えていく人を才能がある、というのかもしれない。

 

縄跳びが出来ないと、かつてアメトークでやっていた運動神経悪い芸人のように、笑われることがある。彼らは笑いに変えているが、そう出来ない人もいるかもしれない。 

 

縄跳びは一例だが、

・本来自然には身につかない動き

・多数の人が練習で習得できる(出来るのが”普通”とみなされる)

・一部の人は習得に至らない

そして自分が頑張っても出来ないことを周囲は「普通出来るでしょ」と言い、虚しい気持ちになる、というのはよくあることだろう

 

余談の余談だが、縄跳びがうまく出来ない子供には

・手を下げたままジャンプする

・縄を飛び越える動作だけを行う

など、連動させるべき動作を一旦分けて個別に練習させ、違和感を取り除くことも効果的らしい

 

そして余談の余談の余談だが、学生時代の友人でプロである彼は四重飛び~七重飛びのギネス記録を持っていて、人類初の八重飛びに挑戦している

 

是非応援してほしい

 

気づいたら出来てた!?縄跳びの上手な教え方 | ピントル
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本当に出来ない人というのは

前節の「基準は恣意的なもの」に加え、本記事で最も主張したいJの意見はこれである

 

「出来ない人」は努力しているとすら認知されない

 

漫画や小説で挫折を味わった少年が「おまえには出来ない人の気持ちなんか分からないよ」と才能人に告げるシーンがよくある。

しかし、自分はたまに思ってしまう。この少年がのび太君くらい本当に何に挑戦してもうまくいかないのならば、そのセリフはよく分かる。

しかし、ただの凡人であれば微妙に違う。

なぜなら自分は「出来ない人の気持が分かる人」というのは、「平均的な人」ではなく「本当に出来ない何かに苦しめられた経験を持つ人」と考えているからだ。

 

Jのトラウマ

 

「出来ない人」の話をするにあたってJの出来ないエピソードを一つ話そうと思う

 

中学生の頃、合唱祭があった。ほとんどの学校であると思う。「ちょっと男子~」とネタにされるあれである。

 

自分で言うのも変だが、最初は比較的マジメな態度で授業を受けていたと想う。背筋を伸ばし、視線をやや上向きに、腹から声を出すように。そのように先生から言われ、そのように歌っていた。すると、とある女子がこんなことを言ってきた

 

「ちょっとJ,マジメに歌ってよ!」

 

何を言われているのかわからなかった 

 

嘘のような本当の話だ(※もちろんあだ名はJではないが)

 

そう、自分はド級の音痴なのである。一学年200人弱の一般的な公立中学校でダントツの音痴だった。

 

多少はマシになったが、今でも音痴だ。しかも出来ないのレベルが平均のそれとは違う

音程という概念がわからないレベルの音痴だった

 

せいぜい裏声が高く、唸り声が低い、というくらいでしか理解出来ていない。聞いたとおりに歌っているつもりで、全く音程が外れていたらしい。アドバイスを受けても周りの言っていることが理解できず、「もっと高く!」と言われても声を大きくするしか出来なかったレベルの音痴だ。

 

数という概念を知らないチンパンジーに掛け算を教えている感覚だったと思う。

 

自分の歌唱力に対する才能は限りなく0に近かった

 

反抗期真っ盛りだったので、マジメに歌っているのに怒られることにも納得がいかず、音痴をいじられるのも嫌なので中々に揉めた。

 

しかし、歌うのは好きなのである。カラオケも好きである。しかし人前で歌う、となると話が変わってくる。友人とカラオケに行くのはいいが、例えば特定の集まりで「二次会はカラオケ」となると大体断ってきた。

 

 

共感の得られない才能

そんなわけで「出来ない人」ポジションを経験したことがあるのだが、ここで歌唱力や運動などの”技術”以外に関することにも2つ言及しておきたい。

 

1つ目が可動域である。

 

Jの柔軟性は壊滅的である、おそらく前世はプラモデルだ。右手で右肩を触ることが出来ない。もちろん左手でもだ。何を言っているのかよくわからない人は、そのスマホを持った逆の手で一度試してみてほしい。

右手で、右の肩を触る。そして左手で、左肩を触る。

ラジオ体操にも出てくる至極単純な仕草だが、Jが腕を目一杯伸ばした状態から腕を曲げたときの到達地点がここである

 

ガチである

「筋肉をつけすぎてるから」と思われるだろうが、肩周りの動きは昔から悪く、野球のオーバースローがうまく出来なかったくらいである。

 

ちなみに、いわゆる”伸び”という動作も出来ない

伸び いらすとや

「そんだけフィジカルあるんだから、可動域広げたらもっと登れるのに」なんて言われたこともある。

しかし、はっきり言いたい

毎日柔軟している

筋肉が邪魔していることは否めないが、いくらなんでもこれはひどいだろう

 

2つ目が特発性過眠症について

 

実は自分は特発性過眠症という睡眠障害を持っていて、睡魔に対する抵抗力が病気レベルで弱い。

 

では「睡魔に対抗できる能力」というもの考えるとどうだろうか。まれに「本当に同じ人間か?」と思うほどずっとエネルギッシュな一もいるし、「ショートスリーパー」と呼ばれる人もいる。

 

そんな人でなくても「大事な会議」「教習所の助手席」「模試のリスニング試験中」など「普通」なら耐えられる場面もあるだろう

 

しかし自分は耐えられなかった。「寝ていいや」などという気持ちは一切ない。

 

そして「危機感が足りない」などと怒られてきた。

 

全くの誤解である。

(もちろん寝ていいということにはならないので、モディオダールという薬を飲みながら仕事していた。)

 

 

そんな人間なので「~は出来て当然」「普通は~」といった表現には抵抗感がある。

 

改めて先の主張を繰り返すと、「出来ない(才能に乏しい)人」というのは努力したって報われないどころか、他者からは努力しているとすら認識してもらえないレベルの人だと思っている

 

さらに付け加えると場合によっては、好きなことを不自由なく楽しむことが出来ない、というケースもある。

 

余談③ クライミングは全ての人が楽しめる遊びであって欲しい

勝手にトラウマを暴露しておいて言うことでもないが、折角ここまでトラウマを公開したからにはせめて善人アピールの一つでもしておきたい。そしてそれが本心であることも。

それは

「色んなレベルのクライマーが堂々とクライミングを楽しんでいる姿を見ると、自分も嬉しくなる」

ということである。

そして「クライミングはどんなレベルの人でも楽しめる遊びであって欲しい」と想っている

 

何故か。

 

クライミングの魅力の一つとして「あらゆるレベルのクライマーが同じ壁、空間を共有しながら遊べる」という点がある。

オリンピック出場選手と気兼ねなく会話出来たり、老若男女別け隔てなく遊べるのは素晴らしいことだと思う。こんな経験は中々ない。

 

しかし裏を返せば、トップ選手の前でプレーしなくてはならない、とも言える。

これをカラオケに置き換えるとどうなるか。「個室」という概念はなく、開けたホールの各所でそれぞれが思い思いに歌うというレジャーであったらどうか。さほど関わりのないプロレベルの歌い手の近くで歌わなくてはならない。

おぞましすぎる

仮に仲の良い友人が「誰も周りの歌なんか気にしてないから大丈夫だよ」と慰めてくれたところで、音楽祭のトラウマがフラッシュバックする自分は、人前で歌うという時点でそもそも「楽しさ」が欠如してしまう

 

実際に、高難度を登るクライマーが一つの壁でセッションしているときに、周囲のクライマーから「流石に割って入りづらい」という声を聞いたことがある。

自分はクライミングに夢中になると周囲を見れなくなるタイプなので、気づかぬうちに自然とそんな状況を作ってしまったこともあるかもしれない。であれば、本当に申し訳ない。

しかし皆同じ用にお金を払って登りに来ているのだから、例え限界グレードの遥か上の課題だって触ってみたければ触っていいと思っている。

 

そもそも同じ客として来ている自分が「触っていいですよ」と言っている時点でもはや図々しい限りだ。

 

トラウマに囚われている自分からすれば、グレードに関係なく堂々とクライミングを楽しんでいるクライマーから勇気をもらえるし、もし強傾斜の壁に挑戦してみたいと考えているのに恥ずかしくてトライ出来ない、なんて人がいるのなら勝手ながらもっと堂々と挑戦して欲しいと思っている

「個室」という概念がほぼ無いクライミングこそ、全てのクライマーが好きな壁を好きなように登って遊べるものであって欲しい

 

そして自分が壁の前で入りづらい空気を作っていたら、容赦なく割って入って欲しい。

 

つらさは人それぞれのもの

さて「本当に出来ない人間は頑張っているとすら認知されない」と言ってみたが、ここで誤解を招きたくないのは、「普通・平凡と言われるレベルにいれるだけでも十分」だとか、「(例えば)世界2位なのに悔しいと思うなんて贅沢」といったことではない

自分の好きな小説の一つ「羊と鋼の森」で次のような一文がある。

ほんとうにつらいのは、そこにあるのに、望んでいるのに、自分の手には入らないことだ

この一文がとてもグッと得た。

 

きっと何度も世界2位になった人にも、どうしてもコンペの決勝に進めない人にも、皆んなが普通に出来てることが全然出来ない人にも、同じだけの辛さがあるのだと思う。

 

辛さは「理想」と「現実」とのギャップにさらに「どれだけ強く望んだか」が掛け合わさって決まるものだと思う。世界トップを目指すような選手たちはそもそも2位じゃ満足出来ないくらいのメンタルを持ってるのだろう。

日本記録を出し、オリンピック初出場で初メダル獲得しながら「金がいいですぅ~」と即答できるようなメンタルの方が、上を目指し続けられるのかもしれない

 

余談④ 片手懸垂師としての才能

ところで、自分は「クライマーではなく懸垂師である」ということをよく言うのだが、この言葉が冗談と捉えられがちなきらいがある。

 

確かに懸垂師という言葉はJの造語である。自分以外で名乗っているのを聞いたことがない。百歩譲ってボクサーを拳闘士と呼ぶことはあってもひたすら懸垂する人間を懸垂士とは言わないし、まして師匠の「師」をあてがうなど正気の沙汰ではない

 

今回の記事を書くにあたって調べてみたのだが、師という漢字には次のような意味があるらしい

  1. 《名・造》子弟を教える者。人の手本となる人。先生。 「師の教え」
  2. 仏教やキリスト教での指導者。 「法師・律師・導師・禅師・牧師・祖師」

 

オレは懸垂について何も教えてないし、指導者にもなっていない。

 

しかしこの言葉は、冗談半分ではあるが本気半分でもあり、間違いなく自分が才能にも努力にも引け目を感じないのは「懸垂」である

自重どころか、自分の体基準で行われるこの行為は、

●生まれ持った腕の短さ(身長172cm、横リーチ168cm)

●幼年期から実施できた初期値の高さ

●少年期から繰り返し積み上げてきた努力(時間

●遺伝タイプによれば比較的筋肉が付きやすい

など全てが満たされている

 

ユーチューブで片手懸垂の動画を探しても、連続23回を超える記録は見たことがない。

ガンプラ並みの可動域に背丈より短いウィングスパンなど、クライミングの素質に関しては疑わしいところが多々あるが、片手懸垂に関しては引き下がれない

 

そんなプライドを持った片手懸垂もチョン・ジョンウォンの27回という記録を見て心折れかけてはいる

 

才能と努力に触れる好きな漫画&小説

というわけで「才能は傾きで考えたい」という話をしてきた。自分は「あの人は才能がある」「~は普通出来る」といった表現はあくまでそう捉える人が多いか少ないかといった数の問題であり、場合によっては偏見から来ている可能性もあると考えている。

 

ジュンサイクロペディアは”世界一意識の低い記事”をモットーにしている。なので特にそれ以上の主張は特にない。

数多ある記事や物語が「才能」と「努力」の葛藤について様々な結論を生み出してきた中で、自分が何か新しい見解を出すつもりも、出せる気もしていない

 

仮に本記事で主張したいことがあるとすれば「本当に出来ない人というのは、頑張ってるとすら認識されない」ということである。とはいえこれもJの体験談に基づく個人的な見解で、他者から見れば頑張ってると思えない要素があったのだと思う。「出来ない人は~」などと大きく括ってしまうのも、失礼かもしれない。

 

それでもクライミングをやってれば、生涯プロジェクトを自分より若くて強いクライマーに瞬殺されて虚無感を覚えることもあるし、虚無感を感じながらももう少し頑張りたいと思うときもある。

(逆に自分が誰かを萎えさせてしまっている可能性もある)

 

そんなJのモチベーションをこれまで高めてくれたお気に入り漫画&小説を紹介して終わりにしたい

※ネタバレ含みます

 

羊と鋼の森

過去の記事でも書いたが、ピアノの調律師を目指す少年の物語

才能があるから生きていくんじゃない 。

そんなもの 、あったって 、なくたって 、生きていくんだ 。

あるのかないのかわからない 、そんなものにふりまわされるのはごめんだ 。

もっと確かなものを 、この手で探り当てていくしかない 。

羊と鋼の森

人と比べてしまうときもあるけど、この少年のようにクライミングを続けられたらいいなと思う

他にも主人公を支える沢山の素敵な言葉が出てくる。

 

ライジングインパクト

”五段を落としただけなのに”の記事の途中でライザーの心境というものを書いた

大人気漫画&アニメ「七つの大罪」の著者「鈴木央すずきなかば」氏が過去にジャンプに連載していたゴルフ漫画に出てくる人物の一人である

ライザーは村で一番のゴルフの才能を認められ、ゴルフエリート養成学校「キャメロット」に入学したが、万年Cクラスで落ちこぼれてしまう。

キャメロットに入学しただけで十分なエリートなのだが、主人公にすぐ圧倒的な差をつけられ、思い悩んでしまう。

作中でライザーをどん底に落としたセリフがある

同じ努力をしても、10伸びるやつもいれば、1しか伸びないやつもいる。気付いているんでしょ?ピエロだって

という言葉

 

作者辛辣過ぎない??

 

最終的には味方を裏切って、敵側についてしまう。ドラゴンボールで言うところの、敢えてバビディの手先に陥ったベジータみたいな展開。

そんなライザーも最後には立派に過去を乗り越えて、トッププロになっている。その時のライザーのセリフが、印象的。

よくあるセリフ、と言われそうだが、当時少年だった自分は素直に良いこと言うなぁと感じた

 

ムーンランド

この漫画は好きすぎて別途記事を書いたくらいで、とにかく体操に打ち込む登場人物たちの心理描写が素晴らしい。

ともすれば人それぞれ共感を得られる選手は違うと思うのだが、個人的に面白かった人物が「間宮太陽アポロ」だ。圧倒的なDスコア(難易度スコア)を持ってして立ちはだかる最後のライバルである。

 

しかし彼の弱点はEスコア(技の美しさ)が伸びないところにあり、それを彼は自覚している。

それは技の完成度をないがしろにしていたわけではなく、幼少期に体操に取り組む環境に恵まれなかった故に身につけることが出来なかった繊細な所作にある。

 

「積み上げてきた長い時間」が「圧倒的な才能」を打ち破る瞬間をもってして感動することはよくある。しかし最後に現れる最大のライバルは、「時間こそが超えられない壁」と感じており、覆すことの出来ない「時間」に立ち向かう。

 

自分は日本の年度(89年4月~90年3月)基準で考えると、明代ちゃん、あんま君、堀くんをはじめ、黄金世代と言える年代のクライマーである。

ちなみにダニエル・ウッズやアレックス・プッチョも同じ世代。(早生まれなのでアメリカと日本では世代が一つずれる)

逆に年度じゃなく年で考えると世界のJS(ヤコブ・シューベルト)が同じ90年生まれ。

とんでもない世代である。自分が18歳でようやくクライミングを始めたころに、世界のトップで活躍している同世代がわんさかいる。ずるぃょ。。。

 

自分も小さい頃から始めてればな、、と妄想することは多々ある。

 

「クライミング歴〇〇年で▼▼段登れました」などの投稿は、ただの自慢に聞こえることもあるだろうが、中には積み上げることの出来なかった時間を取り戻そうと一生懸命なクライマーもいるだろう。

 

そんな少数派の持つ葛藤さえも共感できるキャラクターたちが一生懸命に体操に打ち込む漫画がムーンランド。イチ推しです。

 

ちなみにキーナン・タカハシが2008年にクライミング開始ということで、まさかのクライミング同期。当時17歳と比較的遅めのスタートながら、Kintsugiなど情熱的な登りを見せてくれるキーナンには刺激をもらう。しかし一番衝撃なのは1992年生まれということ、まさかの年下!

 

ブルーピリオド

芸術の世界にのめり込む高校生を描いた、話題作。

”悔しいと思うなら、まだ戦えるね”

というフレーズがかっこいい。自分が打ち込んだラインをゲキ強クライマーに瞬殺されたとき、「全く別の世界にいるクライマーのパフォーマンス」と見るのか、「悔しい」と感じるのか

最近はトモアくんのアサギマダラ3撃というのが衝撃だった。5日間打ち込んで一度も2手目が止まらなかった自分としてはやや虚無感も覚えたが、悔しいという感情はなかった気がする

 

もう少し悔しがっていこうかな

灼熱カバディ

スペイン滞在中に読み込んでハマった漫画

主人公「宵越」のトップアスリートの思考回路が凄い

   

そしてキャプテン「王城」のカバディへの愛が深い

 

ムーンランドと同様に各キャラの個性が際立っていて深く共感を覚えるキャラも多いし、何より最近は主人公が全く登場しないくらいそれぞれのストーリーが濃密すぎる

   

ベイビーステップ

スポーツ経験もほとんどない高校生がラケットを初めて3年間で日本ベスト4まで到達してしまう、とんでもない成長速度を見せる漫画なのだが、凄いのはとにかく全てが理論的なところ。

今まで読んできた漫画の中でも「言語化出来ない伸び代やセンス」を極限まで言語化している作品がベイビーステップだと思う。

単なる身体能力だけでなく、

・プレー中の「理性」と「本能」のバランス

・プレッシャーをどのくらい意識するとパフォーマンスが上がるのか

・ゾーンと呼ばれる状態に入るには?それを維持するには?

などメンタルもどのように整えていくか、その過程が緻密に描かれている

 

高校からテニスをはじめて3年で全日本ベスト4いう結果が漫画染みているが、読み続けていると「これだけ考えて実践して挑戦していれば、奇跡とも言い切れないかも」と思えてくる

 

これまた余談だが、クライミング歴3年でジャパンカップ決勝に進出したサノ選手や、2003世代の活躍を現実で見たおかげで、漫画の主人公の急成長や一見ありえない記録も「これ、現実にもありえるな」と感じるようになった。

 

ぶっ飛んだスポーツ漫画を非現実的と思わない、ってのはもしやクライマーあるあるなんじゃないか

 

他にも好きな漫画はまだまだあるが、このへんで。

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